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原発いらない!の訴えに聞き入る参加者たち=3月11日、郡山市・開成山野球場 |
東北地方を襲った大震災と福島第一原発事故から1周年の3月11日、全国各地で追悼と脱原発を誓う集会・パレードが行われ、欧州と米国、アジアなど世界各地で連帯の声があがった。政府主催の追悼式では天皇が8・15式典のように鎮魂の言葉を述べ、野田首相は「あの日を忘れない」とし、「助け合いと感謝の心」「復興の決意」「がれきの広域処理」を強調するとともに「原発の再稼働へ全力で取り組む」ことを表明した。放射能汚染の最大の被害県となった福島では「原発はいらない!」と訴える「福島県民大集会」が郡山市の開成山野球場で開かれ、全国から1万6000人が参加した。
集会は加藤登紀子さんのコンサートに始まり、開会挨拶、スピーチと続いた。 呼びかけ人を代表して清水修二・福島大学副学長。「福島では災害はなお進行中です。いつもの景色に子どもの姿が見えません。私たちは54基の原発がいかに無謀であるかを身をもって知らされました。原発はいらない!は福島県民の叫び、全国に届けるのが福島県民の使命です」
作家の大江健三郎さん。「3・11の後も原発再稼働の運動が始まっています。求められているのは原発事故を絶対なくすことです。それはできます。原発を全て廃止すればいいのです。政治的責任よりも人間として倫理的責任を重んじることです。市民一人ひとりが抵抗して、新しい民主主義をつくりだしましょう」
福島市から山形県米沢市へ小1、3年の子どもと姑と4人で避難している菅野智子さん。「夏休みを機に自主避難しました。夫は福島市に住み、家族が二重生活をしています。転校した子どもは友達もできました。原発がなければ福島を離れることはなかった、福島に帰りたい、その気持ちに変わりありません」
二本松市で有機農業を営む菅野正寿さん。「有機農業への打撃は深刻です。風評被害はまるで福島県民が加害者のようです。マスコミが追及すべきは電力会社と国です。戦前は農民兵として、戦後は出稼ぎとして、また都市に電気と食料を供給して支えてきました。がんばろう日本≠ナはなく、日本を変えよう」
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「反原発」を訴え、「脱原発」で1000万署名などに取り組む新社会党も集会に参加しデモ行進した=3月11日、郡山市内 |
相馬市で漁業を営んでいた佐藤美恵さん。「あの日朝、市場で競りをして自宅に帰り、加工販売の準備をしていて地震・津波に遭いました。弟は沖に舟を出し、3日後に帰ってきました。漁師は船を守っていますが、放射能が漁を許しません。一日も早く漁業を復興し、美味しい魚を全国に届けたい」
飯舘村で高原野菜を作っていた菅野哲さん。「全てを失い、涙を流して廃業しました。どうやって生きろというのですか。事故は人災です。東電と国は責任をとってください。新しい避難村を建設してください」
富岡高校から郡山市のあさか開成高校に転校した鈴木美穂さん。「転校して被災者になっていました。私はがんばれという言葉が嫌いです。人の命も守れないのに、電力とか経済とか言っている場合ではないでしょう。私たちの未来を一緒に考えていきましょう」
福島憲浪江町から本宮市の仮説住宅に避難している橘柳子さん(72歳)の訴え―
これまで9カ所の避難所を転々としてきました。千人なら千人の苦しみと悲しみの物語があり、泣きたくても涙が出ない辛い思いを抱えています。
114号線を車での避難は、私にとって戦争を連想させます。戦争終了後、中国大陸を徒歩で集結点に戻った記憶が蘇りました。徒歩が車になっただけで、延々と続く車の列はあの苦しかった戦争そのものです。私は怯えました。国策により二度も棄民にされてしまったのかと。
脱原発・反原発の運動をした人もしなかった人も、関心のあった人もなかった人も、原発のあった地域も無かった地域も、事故の被害をくまなく蒙りました。復興と再生の中で、差別と分断を感じるときがあります。それを見逃すことなく、注意していくことが今後の課題です。
東北や福島はもっと声を出すべきだと言われます。でも、打ちひしがれ喪失の心を持っていて、声も出ないのです。展望の見えないなか、夢や希望の追求は困難です。しかし、未来に生きる子どもたちのことを考え、脱原発・反原発の実現を支えに生きてゆくことが唯一の希望です。
先の戦争のあと、子ども達がお父さんお母さんたちは反対しなかったの?と問うたように、原発に反対しなかったの?と言うでしょう。原発を全国に54基もつくってしまった日本、子どもたちの当然の質問でしょう。
甚大な被害をもたらした原発事故に遭遇しながら、まだ原発は必要だという発想はどこから出てくるのでしょう。立ち止まって考えましょう。原発は人間の意思と行動で止められるはずです。
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