私の故郷は、栃木県の那須連山を望む太田原市にある。代々農業を営んでおり、家督を継ぐ私の弟は7代目にあたる。まだ日本の多くの家に残る仏壇と神棚が並び、仏壇の周りには先祖代々の当主の人物画や写真が飾られている風景は、私の実家も変わらない。
寿命を全うし精一杯生きたであろう人物たちの力強い表情が、仏壇の前に座る私を見つめる。そのなかで一際若く透明な表情をした青年の姿は、小さなころから私の目を引いていた。
青年の名は「富雄」。私の大叔父にあたる。富雄は1944 (昭和19)年7月31日にバシー海峡で戦死した。23歳という若さであった。
バシー海峡に眠る大叔父
バシー海峡とは台湾とフィリピンの間の約100キロメートルの海峡である。第2次世界大戦末期に、制海権も制空権も抑えられた戦況の中で、最終決戦地に輸送船を送り込み、多数配置された米軍の潜水艦による魚雷によって次から次へと撃沈され魔の海峡“輸送船の墓場”と恐れられていた。
この愚かな輸送作戦で、5000トン以上の輸送船、艦艇はほぼ200隻以上が撃沈され、少なくとも10万人、最大で25万人の命が失われたという。
25万人の1人が、私の大叔父「富雄」である。富雄の「死亡告知書」が届いたのは1947 (昭和22)年4月15日であった。遺骨のひとかけらもない空箱に告知書が入っていたという。今も海底5000メートルのバシー海峡のどこかで多くの犠牲者とともに眠っているのであろうか。
仏壇の棚にしまわれて
昨年のお盆に帰省した際、仏壇の棚にしまわれた一通の手紙が、今年80歳になる私の父から差し出された。71年前に自分の母親あてに書かれた富雄の最期の手紙であった。
陸軍に召集された富雄は、入隊して2カ月余りで自分の父親を病気で亡くしている。朝鮮半島に赴き、いったん内地に呼び戻されたときに訃報の電報を受け取ったことが手紙から読み取れる。隊長より「気を落とすな、父上の冥福を祈ってこい」と言われ、涙ながらに嬉しかったという。
実家の庭に来てみれば、家の廻りの植木もなんとなく寂しく感じられた。「よく帰ってこられた」とみんなは喜んでくれるが、父親の顔だけが見られないことが「ほんとうに悲しくなった」と綴られている。
そして「再び生還できないことは覚悟致して居ります」と遺書ともとれる一文が書かれている一方で、戦地への航海を前に、父親の闘病で家族が苦労したであろうことを気遣う心の在り様が私の心に深く突き刺さる。
子孫に伝わる反戦の思い
この手紙を受け取った母親、私の曾祖母シカの気持ちはいかばかりであったろう。シカは生涯6人の子どもを産んでいる。富雄は4番目の子ども。私にとってこのシカの記憶は鮮明である。93歳で他界しているが、気丈な人で昔話が上手であった。
ひ孫の私が、シカの箪笥から小銭をほんの少しだけ失敬するも即座に見抜いてしまうしっかり者でもあった。明治、大正、昭和と幾度の大戦に出遭い、貧しい農村地で地を這いながら額に汗して生きてきた人である。彼女の泣く姿は想像できない。たぶん富雄の戦死を知らされても泣かなかったであろう。泣けなかったであろう。
しかし、この手紙に出会い、涙にならない人間の深い悲しみとやるせなさを想像することができる。当時の紙が粗雑であったことを織り込んでみても、4枚の手紙を四つ折りにした折り目の端々はボロボロであり、封筒に至っては何カ所もセロテープで補修されている。手紙の姿に涙する。
シカは死の床に臥すまで、この手紙を何度も何度も見開いては富雄を想ったことだろう。愛する人と出会い家族をつくる喜びも、額に汗して働く喜びも知らずに命を絶ち切られてしまった富雄を想って…シカの死後もこの手紙は大切に、大切に仏壇の引き出しにしまわれている。
戦後70年目の8月15日がやってくる。お盆にはシカの子孫たちがこの手紙を見開く。この手紙を伝えていくことが富雄に繋がる子孫たちの限りなき反戦への思いであり、平和への祈りである。
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