平和憲法は大きな闘いで幾度も守られてきたものの、護憲勢力は瀬戸際まで追い詰められてきた。だが、闘いの中でまかれた種は必ずどこかで芽吹く。そんなことを実感するのが、「戦争法案反対!」の声が街にひびく今年の8月だ。
60年安保闘争のとき筆者は14歳だった。先生が「今日はデモにいくから自習にして下さい」と言うとみんな喜んだ。
新聞のトップニュースは10万から30万人の国会デモの波だった。樺美智子さんが殺された6月15日は、警棒で打たれながらアナウンサーが悲壮な声で実況中継しているのを深夜放送で聞いていた。子ども心に、ストやデモは普通のことで権力は悪だという観念が育まれたように思う。庶民の日常にまで染み込んだ反安保闘争だった。
憲法が光り輝いた
その後しばらくは大きなデモや政治ストライキは記憶にない。60年安保改定を強行直後に岸内閣は退陣したのだが、その後、池田内閣が「高度経済成長」を演出したので大闘争の波が急速に引いてしまったからだ。
だが、「高度経済成長」は60年代末から社会矛盾を噴出させた。70年安保改定反対・ベトナム反戦・沖縄返還闘争、国民春闘など数年の間世間は騒然とした。国電が止まろうが、郵便物が遅れようが、学生が道路にバリケードを築こうが、反原発や反公害で住民が実力闘争をしようが、世間から非難されなかった。社共両党が伸長し、憲法は光り輝いていた。
ところが、「日本列島改造」で金権政治を強行してきた田中内閣が、クリーンを売り物にした三木内閣に交代してから雲行きが怪しくなった。しばらくして社会党・総評の解体を公言する中曽根内閣が登場する。
だが、91年の湾岸戦争と翌92年のPKO反対闘争が9条の役割を多くの人々に考えさせることとなり、国会は自衛隊を一兵たりとも海外に出すなと野党の体を張った牛歩で揺れ、数万のデモが取り巻いた。そして、憲法9条を世界に生かすべしという意見が世論調査でも多数を占めるようになった。
ところが総評は解散し、連合主流が護憲の柱である社会党をつぶそうとして92年の参議院選挙で社会党の足を引っ張り、社会党は惨敗してしまった。この暗転は社会党解体の始まりだった。
もうだまされない
幾度も目くらましで苦渋をなめた数十年だったが、護憲の政治的な主体がひどく後退させられてもなお、戦争法案反対の世論はかつてなく広がっている。幾度も撒かれた種は今芽吹いている。半世紀以上アレコレやってきたことも無駄ではなかったと思う。
安倍は戦争法案を強引に通したら退陣し目先をかえた新内閣が登場するという噂もある。しかし、リアルに戦争の危険が迫り憲法に後がない今、権力の本性を体感した民衆はもう目くらましにはだまされないだろう。
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