新社会党
  1. トップ
  2. 週刊新社会
  3. 道しるべ
  4. 2018.09.04
2018.09.04
「日中条約」40周年
アジアの未来への新たな道を
   1978年8月に調印された日中平和友好条約から今年は40周年を迎えた。日本と中国が「友好」を唱えるだけの時代は過ぎた。日中の相互信頼によってアジアはもとより、世界平和に果たすべき役割認識の醸成が求められている。

和解の主役は人 
 国交回復(72年)とパンダブームで幕開けした日中友好、尖閣問題に端を発した反目の時代、一時の激しさを脱したように見えるが火種は消えていない。この四十数年間、日中の関係は極端な幅で揺れ動いてきた。

 なぜか。無条件降伏から半世紀に至ろうとする歳月を経た今なお、日本はアジアでの和解を成し遂げていないからだ。日中関係が良好で、上向いている時には表面上は見えにくくなっているが、民衆の間には複雑な感情が今も広く残る。

 時の首相による靖国神社参拝、教科書問題などは、歴史を直視しない日本の一部政治家や勢力の妄動が原因と言うしかないが、侵略や植民地支配を正しく評価できず、記憶を意図的に「風化」させてきた日本の為政者の責任は大きい。しかし、あえて「国民性が問われている」と言いたい。歴史の和解を進める主役はあくまで個々の人間であると思うからだ。

 民間交流の歴史 戦後、日中友好の扉を開いたのは民間交流であった。72年に「日中国交正常化条約」締結のために北京に赴いた当時の田中角栄首相は、「私は、長い民間交流のレールに乗って、本日、ようやくここに来ることができた」と述べたのは、この民間交流の歴史があったからだ。

 しかし、「国交正常化」は決して日本の主体的努力でなされたものではなかった。同年のニクソン訪中が日本に扉を開かせたのである。それまで日本は「反共の防波堤」の役割を担い、中国封じ込め政策であった。

小異残し大同に 
 突然の政策変更のために、両国政府も国民も、「国交回復・友好条約」締結の意味について十分な合意が形成されていたとは言えない。

 「小異を残して大同につく」という理解も当初は楽観的だったが、四十数年の歴史はその違いを乗り越えることができずにいる。「不幸な経過」も、日本国民は、中国における民族的自覚と苦悩を十分共有できていたとは思えない。

 日本は今、大きく変わろうとするアジアや世界で、どのような役割を果たすのか、主体的な判断が求められている。

 「過去と他人を変えることはできないが、将来と自分を変えることはできる」。平和と繁栄と人権を尊ぶ日中両国民が、各国の国民と共にアジアの未来に、新しい道を拓くことはできるはずだ。

 「思うに希望とは、元々あるものとも言えぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。元々地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(魯迅)。