2018.06.19
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戦争や空襲を若い世代に伝えるために |
国の責任での補償求める~戦時災害援護法制定を要求~

神戸は、「軍都」ではないが、川崎や三菱など軍艦や航空機を製造する軍需工場の街であった。
米軍の戦略爆撃の対象となり、1945年2月4日、3月17日、5月11日、6月5日…と100回を超える空襲が続き、市街地は焼け野が原になり約8000人が犠牲になった。米軍は日本の木と紙の家に効果的な焼夷弾を研究し、戦略爆撃、無差別爆撃を繰り返した。
空爆の歴史をみると
第一次世界大戦から空爆が世界に広がった。科学技術が進み、飛行機が空から爆撃を行い、戦車が地上を踏みにじっていく戦争は、「銃後」という言葉の意味を失わせた。日本軍は、第一次世界大戦で国民「総力戦」の必要性と空爆の効果を学んだ。1931年には中国遼寧省錦州に空襲をした。1937年にドイツがゲルニカへの空爆をしたのは有名だが、日本軍も中国南京への空爆を始めた。重慶爆撃は1938年2月から43年8月まで続き、死者は1万人を超える。重慶爆撃被害者が日本政府に対し2006年から訴訟を起こしている。米軍のアフガニスタンやイラク、イラン攻撃など国際法で禁ずる無差別爆撃への抗議とも重なる。
日本政府は、1933年に「防空施設促進に関する建議」を出し、37年に防空法が制定された。市民を守るためではなく、防空体制に強制的に参加させるもので、「逃げるな、火を消せ!」とうたい、灯火管制、防空体制違反は300円以下の罰金、拘留、または科料とある。「朝鮮のミサイル攻撃」と騒ぎ立てJアラートを鳴らし、「非常時の訓練をする」政府や自治体の動きは、戦前の動きに重なってくる。
一方で、1942年民間人被害を想定した「戦時災害保護法」が制定されたが、46年廃止されていた。戦後、杉山千佐子さんが中心となった全国空襲被害者連絡協議会は、軍人への国家補償を戦災で死傷した民間人にも補償するべきだと「戦時災害援護法」制定を要求した。欧米諸国には軍人も民間人も平等に戦災被害への補償をする法律があるが、日本では、国の責任での補償を求め多くの裁判や議員立法が取り組まれてきているのに未だに実現していない。
神戸空襲を記録する会
第1回空襲・戦災を記録する会全国連絡会議が開かれた1971年、神戸空襲を記録する会が発足した。72年から神戸空襲犠牲者合同慰霊祭が3月17日に薬仙寺で開かれている。空襲体験記の出版、75年に市民募金による慰霊碑を薬仙寺に設置、81年には神戸市立中央図書館に戦災資料室開設、95年阪神淡路大震災前後から、学校の授業の中で、中田政子代表をはじめ体験者の神戸空襲の話がされるようになった。
99年戦跡ウォークも始まった。2013年大倉山公園に空襲犠牲者の名前を刻銘した「神戸空襲を忘れないーいのちと平和の碑」を立てた。
「平和マップ」や絵本「さなえさんのて」
広島や長崎、沖縄への修学旅行や平和学習への取り組みが少しずつ広がってきた。しかし、「祖父母に戦争の頃のことを聞く」といった戦争を身近に感じることが難しくなっている。空襲を記録する会で話される体験者も高齢になってきた。
2001年から体験を話されるようになった故石野早苗さんは、姉を空襲で奪われ、ご自身の右腕も焼夷弾で失う、という体験を淡々と話され、戦争の悲惨さを強く感じ、子どもたちの心をうった。
15年間に200回以上もお話をされた。14年来神した重慶爆撃被害者の訴訟団の皆さんは、中田さん、石野さんの話に、一人の方が足の傷を見せ、石野さんの義手に手を重ねながら、「民衆はいつも犠牲にされます」と悲しまれ、一緒に戦後の苦労を話されていた。
子どもたちや若い世代に、身近な街に戦争の被害があり、戦争に苦しんだ人々の姿があることを、戦争の恐ろしさと、平和の大切さを知ってほしいと思い、神戸市内各区の平和マップを作製、小中高校に届けてきた。昨年全区が完成した。
独自にウォーキングする学校や夏休みの課題に戦跡を調べまとめる動きも続いている。また、空襲体験の話を聞かせてと新たに連絡が入っている。しかし、体験者が語ることが難しくなるなかで、二度と戦争に苦しんでほしくない、と願う石野さんの思いを伝えたいと絵本にすることにした。小中学校と図書館には寄贈、後は皆さんの協力で広げていただいている。
戦争をかっこうよく見せたり、必要悪のように見せたりする動きは許せない。「正義」の名のもとに何をしてもいいわけではない。今も戦火に苦しむ子どもたちに目を向け、戦争を起こさせないために、体験を語り継いでいきたい。
(兵庫 小城智子)申し込み先 神戸平和マップをつくる会(神戸学生青年センター内) ?078(851)2760 1000円(送料込み) |
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