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  4. 2019.08.20

民主主義と表現の自由への暴力的抑圧
『表現の不自由展・その後』が脅迫で中止
「平和の少女像」の展示 日本人とは誰を指すのか

展示会という名の<主戦場>

 今や慰安婦問題の〈主戦場〉は、愛知県名古屋市内で開催されていた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」に移行したかのようだ。 

 「表現の不自由展・その後」が、わずか開催3日目の8月3日、展示中止に追い込まれた。大村秀章愛知県知事は、記者会見で中止決定の理由を「テロや脅迫ともとれる抗議があり、安全な運営が危ぶまれる状況」であると説明した。 

 「表現の不自由展・その後」とは、2015年東京で開かれた「表現の不自由展」の「その後」をテーマとする。つまりこれまでも各地の美術館で撤去されるなどした作品がある。

 たとえば、2014年、さいたま市の公民館だよりに、政治的公平中立の立場から好ましくないという判断で掲載拒否された、憲法9条を詠んだ俳句や、従軍慰安婦を題材とした「平和の少女像」などをあえて並べ〈表現の自由をどう考えるか〉という議論を呼び起こす契機にしたい、という趣旨で津田大介氏を芸術監督として企画された。

 とりわけ、今回問題視されたのが「平和の少女像」だ。展示中止を県知事に強く申し入れた河村たかし名古屋市長は「日本人全体を傷つけるもの」と、その理由を述べた。この企画展は、文化庁の補助事業でもあるからと、菅内閣官房長官も、3日、補助金交付を慎重に判断する、との政府の考えを示した。

 この名古屋市長のいわゆる「日本人」の中に筆者も入っているのかと思うと、その夜や郎ろう自じ大だいな物言いに辟へきえき易するとともに、裏返せば、この言葉が示している〈同質者への愛〉に当然のことながら強い反発を覚えもする。

 こうした行政サイドの介入及び展示中止の判断に対し「日本ペンクラブ」( 吉岡忍会長) や、「劇作家協会」(渡辺えり会長)は、「発表する側鑑賞する側の意思の疎通が妨げられれば、社会の推進力たる自由の気風も委縮させてしまう」、「『行政の気に入らない作品』が展示を認められず助成金も受け取れないことが通例となっていくならば、憲法21条に禁じられた『検閲』の実質的な復活です」などの声明を発表した。

 私は、〈表現〉を、明らかな政治的意図に還元して排除しようとする勢力に対して、学生を教えてきた教師としての立場からも怒りを覚えざるを得ない。何という臆面もない〈公共性の欠落〉かと。公共性とは、異質なものの相互承認であり、それこそが近代国家の努力目標ではなかったか。

 しかしながらこの日本という風土では、〈同調圧力〉が四方に張り巡らされていて、公共性が生まれにくいのも周知の事実だ。自分一人が異質であることに人々は怯えてしまう。何よりもそれが恐ろしいのだ。

 そして右顧左眄(うこさべん)しつつ、脆弱な〈実感〉を頼りに異質なものを排撃するのである。

 それを突き詰めてみれば、最終的に〈成熟拒否〉の構造が立ち現れてくる。

 日本には〈社会〉はなく〈世間〉しかない、と言われる所以である。今回も、そのような〈世間〉によって、生まれかけた公共的空間が潰されたかたちだ。

展示継続をするために
 また、一方でこうも考える。日韓関係が緊張の度を加えるこの時期、「平和の少女像」を日本で展示する、ということが、元慰安婦の女性たちを、さらなる政治的コマとして利用されることにつながらないのか?という配慮が企画者側にあったのだろうか、と。

 7日の『東京新聞』に、不自由展実行委員会が「中止決定に納得していない」として大村知事あてに展示再開を求める公開質問状を提出したことが報道されている。展示再開を求める市民からは、表現の自由と民主主義を恫喝・暴力で抑圧するものだという声が強まっている。

 また「抗議は想定内。展示継続のためにやれることはたくさんあった」との会見内容も紹介された。しかし抗議は想定外に大きかったのであろう。その点、抗議の対応に関する見通しが、つまり「展示継続のためにやれること」の事前の配慮が甘かったのでは、とも思う。

 だから再展示をという大きな動きがあるのは喜ばしい。展示中止によって勝ち得たものがある、と考えるのも、表現者たちが生き延びるための方途であろう。この表現の抑圧によって、「少女像」を知らなかった人々が我も我もと見たがるはずである。それこそが「展示中止」がもたらした最大の効果だ。

 そしてそれぞれが個人的な枠の中で、この像に出会うことを願わずにはいられない。〈個人の表現〉本来の営みとして。