アスベスト被害者の問題は、05年6月、尼崎のクボタ神崎工場での「クボタショック」マスコミなどで大きくクローズアップされました。
岡山でのアスベストの関わりで組織的な取り組みは、08年4月に「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会岡山支部」の結成、09年5月の「岡山アスベスト裁判を支援する会」から続く「おかやま労働安全衛生センター」の結成でした。
それまで「ひょうご労働安全衛生センター」の西山和宏さんが岡山に通いアスベスト被害者の支援をし、今も足を運び支援をしています。
日本のアスベスト産業
日本におけるアスベスト産業は明治政府の国家政策として「富国強兵」のもとで推進されました。きっかけは1894年の日清戦争で相手国の戦艦を接収し調査した結果、断熱艤装のためアスベストが大量に使用されていることから、戦艦の建造にアスベスト製品の国内生産が不可欠のものとなりました。
日本でのアスベスト関連企業の創設は1896年の「日本アスベスト」、現在の「ニチアス」です。1908年に「栄屋石綿紡績所」が大阪泉南に設立されました。1926年には泉南で9社まで拡大。アスベスト紡織製品はそこから保温材、パッキング等に加工されました。これらは海軍の指定工場となり軍事需要として発展しました。
また、軍部から要請されたものは摩擦材としてのブレーキライニングがあります。曙石綿工業が有名で、設立当初から陸軍とつながり1938年の国家総動員法以降は軍部から増産が要請されました。1944年には社名を曙兵器工業株式会社に変更しています。
その他としては、高圧石綿セメント管は戦時中に寿鉄管が鋼材の節減要請から大変重要視され上水道施設に利用されました。他に石綿スレートがあります。1923年の関東大震災により耐震性が、1934年の室戸台風での被害状況から建材として評価が高まっていきました。
軍需から民需へ
1949年頃からアスベストの輸入が再開され、1962年輸入の自由化となり急激に増加し、日本の高度成長を支えたのはアスベストであり、火力発電所、コンビナート、交通分野では使用量が大幅に増加しました。
60年代、石綿スレートは耐火、耐水、耐蝕、軽量、強靭の特徴が近代建築にマッチし、建材の耐火・不燃建材として利用、戦後急速に消費されたのが石綿セメント管でアスベストの危険性が注目されたが、1970年代ごろまで盛んに消費され、1985年に国内生産は中止されました。
またアスベスト製品による健康障害の代表格である吹き付けアスベストは、造船・鉄道車両・建築の3業種に多く使われました。熱絶縁体として、防音材として、結露防止として使用されました。
吹き付けにより繊維が露出しているので、はがれや脱落を起こしやすく被害をもたらしています。吹付け工事は、肉眼で確認できるほど埃がひどく労働者だけでなく周辺の住居にも飛散し影響が出ています。
|