脱落する学生の激増
経済や経営の観点は「労働力移動」と考えるが、そこでは個別の労働者はすでに「モノ」である。業種が異なる労働現場ですぐに働けるかどうかなどは勘案されていない。クビにならないだけましだと言われかねない現実がある。
雇用や賃金の間題にはジェンダーの差がある。『産経新聞』9月21日付に女性の自殺が増加し、日韓で情報交換しているという記事が出た。そして、1990年代に始まる「就職氷河期」世代には、採用はさらに縮小されている(『読売新聞』9月23日付)。
「オンライン化」と簡単に言うが、インターネット環境が揃わなければ在宅勤務もオンライン授業を受けることも困難である。また、オンライン化した業種では、職場に拘束されることがない代わりに、労働時間を考慮せず成果主義化が急速に強められる。
筆者も関わる高等教育の現場は、オンライン授業続きの結果、学生からの「授業料値下げ運動」にぶち当たった。設備も利用できず、ネットは自費負担では確かに授業料支払いに足りるとは実感できない。
9月19日の『朝日新聞』には、オンライン教育は保護者の年収でその質と機会が変わる可能性を指摘した記事が掲載された。パソコンを買い、通信環境を確保し、さらに多様な教育システムにアクセスするのは、すべて保護者の負担である。とくに今後懸念されるのは、事業停止などで保護者が失業したり収入が激減したりした結果、教育から不本意に脱落する学生の激増である。
反面、教師にとってもオンライン化は全く異なる講義形式をとらねばならず、学生と生身で対峙した時の感覚は全く使えない。
精神的に学校へ行くことが辛い学生には出やすいという利点もあるが、逆に体当たりでないとできない科目は無理なのだ。今のところ日本は感染者は出ていても死者は少ないとはいえ、これからどうなるかはわからない。学校に学生を集めてどうなるかは、アメリカで授業再開が止まったことでもわかる。
競争社会と「自己責任」
そして、介護や医療現場に代表されるような、いわゆる「エッセンシャルワーク」の現場は、オンライン化はできない(ロボット化も無理だろう)。
医療従事者に拍手を送ろう、という動きがあった。一瞬の清涼剤にはなったが、解決策ではない。ネットの中だったが「拍手は食えない」と書かれた労働運動のポスターが掲げられた国の写真を見た(日本ではなかった)。公的医療現場を経済原理で壊し続けた日本の場合、ヨーロッパのような強毒のウイルスだったらひとたまりもなかった。
コロナウイルスは、この世界の経済的・文化的貧富の格差をあぶりだす最後の一押しであった。問題はすでにあったが誰も見なかった。阿部彩氏は、コロナウイルスによって広がった貧困問題に慌ててみせる政治家たちヘ違和感を隠さない。これまで何度も指摘されていたが、どこ吹く風だったからである(村上陽一郎編『コロナ後の世界を生きる』岩波新書所収の文章)。
とくに日本は「真に困った人だけ助ける」という選別主義を採る。加えて「真に困った人」認定は、社会的に「ダメな構成員」として位置づけられる。多数派も支持してきた。
安倍内閣に代わって菅義偉氏が率いる新内閣ができた。菅首相は「まず自助、共助、公助」という。菅首相は「苦労人」というが、苦労人は他人の苦しみに同情するとは限らない。かえって「自分はできたのにお前はできない、ダメな奴だ」と見捨てることもありうる。
産業構造の大転換が促進されるのは疑いないが、競争社会と「自己責任」の視点を見直さなければ、どのような産業が主流になっても苦しさは変わらない。
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