授業料の値上げなど学費負担の増加と経済状況の悪化によって、奨学金を利用する大学生が増加している。日本の大学生の半分以上が、何らかの奨学金を利用しているのが現状である。
大学生の奨学金利用の8割以上を占めているのが、日本学生支援機構の奨学金だ。日本学生支援機構の奨学金は貸与のみで、しかもその半数以上が有利子の第二種奨学金となっている。有利子の第二種奨学金は、大学卒業後に借りた奨学金以上のお金を返さなければならない。
しかし、大学卒業後の若年層の雇用状況は悪化している。大学を卒業しても職につけなかったり、非正規雇用となることは珍しくない。また、正規であってもボーナスがなかったり、年功序列型賃金がないなど「名ばかり正規」「義務だけ正規」と呼ばれる周辺的正規労働者が増えている。所得がなかったり、低賃金であれば、奨学金を返すことは困難だ。実際、日本学生支援機構の調査でも、延滞者の約8割が年収300万円以下であることが明らかになっている。「返したくても返せない」人がたくさんいる、というのが現実だ。
誤り含む自己責任主義
奨学金返済滞納者の増加に対して、「借りた金を返すのは当たり前だ」とか、奨学金を「返さない若者はなっていない」など自己責任を強調する意見を耳にすることがよくある。しかし、この意見は重大な誤りを含んでいると思う。
日本では長い間、大学の学費は親負担主義が原則となっている。授業料など子どもの学費については、親が責任を持つべきだという考え方が多数派だ。学費の親負担主義の下では、大学の学費や奨学金について、学生が「自分で何とかする」=「自己責任」の領域として扱うのは不適当である。なぜなら奨学金を借りる要因のほとんどは、学生本人の努力ではなく、親の経済力にあるからだ。多額の奨学金を借りる理由は本人にではなく、親の経済力が不足していることに原因があるのだから、それを学生本人が返すのが自己責任だというのは妥当ではない。
逆に言えば、奨学金を借りない学生は、本人が借りない努力をしたわけではなく、親の経済力にめぐまれていたからにすぎない。彼らだけが卒業後に苦労しない特権を手にしてよいのだろうか。奨学金返済困難の理不尽さは、経済力のある親の子どもは苦労せず、経済力のない親の子どもは苦労を強いられるという「生まれによる」格差の構造にある。
条件を無視する努力主義
私立大学の学生が奨学金制度の改善を求めるデモに参加したことに対して、「そんなにお金がないなら国立大学に行け」というインターネットでの書き込みが大量に行われた。しかしそこには、私立大学よりも入学難易度の高い国立大学には、塾などの学校外教育費を支払える、相対的に豊かな家庭の出身者が入学しやすいという事実への認識が欠落している。大学入学は本人の努力だけで決まるのではない。出身家庭の経済資本や文化資本が、本人の進学の有利不利に大きな影響を与えていることは、これまでの教育研究が余すところなく明らかにしている。
「日本は資本主義の国だから、格差があるのは当然だ」という書き込みも、論点をはずしている。奨学金を充実させることは「結果の平等」を求めるものではなく、教育機会の均等、つまり社会に出る前の「スタートの平等」につながるからだ。
壁となっているのは社会に当たり前のように蔓延している教育の親負担主義と努力主義の弊害だ。1970年代から40年間以上、学費が高くなって長い時間がたち、塾や予備校などの学校外教育機関に親がお金を支払うことが当たり前になった。そのことによって、教育費を家計が負担するということが、親の経済力によって子どもの受ける教育の質が異なる「生まれながらの差別」を生み出しているという根本的な不公正が見えにくくなってしまっている。
戦後経済成長を支えてきた「努力すれば何とかなる」という努力主義が、努力しようと思ってもできない不平等や不公正を見えなくさせている。努力することは確かに美徳だ。しかしそれが努力を支える条件への視点を欠落させた努力主義となった時、新自由主義の自己責任を無批判に受容するイデオロギーとなってしまう。
奨学金制度を改善する運動を広げることで、教育費の親負担主義と努力主義の問題性を明らかにし、「生まれながらの差別」に鈍感な日本社会を変えて行きたい。
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