車谷長吉が常識を無視した作家であることは多少知っていたが、これほどとは思わなかった。その奇人変人ぶりを著者は女房的肉眼で語っていて、読者を驚かせる。
例えば、外出の時も常にGパンの前を開けておくので、すれ違う人が注意すると、「わざとです」と平然と答える。トイレに急いで行く際に間に合わないと困るからだそうだ。やむなく妻はパンツののぞく部分に紺色の布を当てておいたという。こういうのはむしろ人を驚かせ、眉をひそませる行為を楽しんでいるとも見える。
多分に露悪的な彼の作風とも通じる傾向であろう。極端な潔癖症で、手や足の触れる場所をすべて消毒しなければ気が済まないは序の口で、不安が高じて精神を病むに至る。
他人から見れば地獄の日々とも見えるが狂気の原因が妻にあるわけではないので、妻は罪悪感を覚える必要はなく、むしろ夫の「観音さま」としてふるまうことができる。そこに救いがあり、随所に漂うユーモアと相まって、読後に光のさし込む窓を見るような明るさがある。
明るいのは、基本的にこれが夫婦愛の物語だから、でもあろう。しかし互いに唯一絶対の存在として求めあう男女の関係というのは、現代においてはリアリティが薄く、大甘な恋愛小説になるおそれがある。
そうならなかったのはなぜか。高橋順子という詩人が車谷の才能、その性格の負の部分も含めて惚れ込み、それを予想した車谷が、彼女こそすがりつく「観音さま」だと信じて甘え、わがままのし放題だったこと。
このように他人からは愚行と見えようとも互いを引きあう愛の力学を読者に納得させてしまうエネルギー源が、この小説にはある。それこそは、2人を結ぶ観念的きずな=「文学」という価値であろう。2人は共に「文学」の魅力に捉われているからこそ、互いに執着するとも言えるのではないだろうか。
(こばやしひろこ 株式会社文藝春秋 1600円+税)
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