「『ドン』のドンザッキー(日本人なり)、『ド、ド、ド』の多田文三、その他色んなダダイストと一緒に、神楽坂のプランタンや白山の南天堂などで酒をくらって、ただもう矢鱈に暴れていた。書くことより暴れることに使命(?)を感じていた。
間もなく同人はみんな学校を追い出されたり、自分でおんでたりし、私ひとりがベンくとして学校に残った。みんなに卑怯未練を罵られたが、私は母一人子一人の身で、母を悲嘆に落したくなかったから、暴れることは暴れても、母の前は巧みに糊塗していた。そして学校はとにかく出て、母を扶養せねばならなかったからである」
『わが小説修行』(月刊文章編輯部)のなかで、作家の高見順が「処女作と出世作」で書いたものである。何か時代の空気がひたひたと感じ取ることができる。
同人雑誌『日暦』に「故旧忘れ得べき」を連載、芥川賞の候補となる。だが、途中で書くのをあきらめていたが、武田麟太郎の『人民文庫』発刊に伴い、強く連載の復活を勧められて再開する。
「ところが逃げる頸筋を武麟さんがつかまえて、今度は本にしろと言う。終ったら、本に出せと言う。そして人民社から出したが、なんとも冷汗ものである」
この冷汗ものの『故旧忘る得べき』が、高見の出世作となり小説で食っていけるようになったのだから、縁は異な者だ。
高見順(たかみじゅん)は1907(明治41)年1月30日、福井県坂井郡三国町(現・坂井市三国町)平木に生まれる。父は福井県知事だった阪本ソ之助、その「非嫡子」として生を受けたが幼少時から差別される。1924年に東京府立第一中学校卒業、第一高等学校文科甲類入学、27年に東京帝国大学文学部英文科に入学し卒業。タレントの高見恭子は娘である。
雑誌『大学左派』の創刊に参加、プロレタリア文学への道を突き進む。33年、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙され、転向を表明、半年後に釈放される。
36年には、『人民文庫』創刊に雑誌『日暦』同人と共に参加する。この頃コロムビア・レコード会社を退社して文筆生活に専念をする。
41年には、陸軍報道班員として徴用されてビルマに派遣、44年には中国にも派遣された。日本文学報国会に参加をする。
第二次世界大戦後は私小説的な作品を次々と発表。特筆すべきは近代文学の資料散逸を防ぐために、日本近代文学館の設立に尽力した。65年8月17日、食道ガンのために死去。戒名は「素雲院文憲全生居士」。
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