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2018.11.20
作家 円地 文子 (上)
 
  円地文子は、『源氏物語』の現代語完訳でよく知られている。流麗な文で、雅がある生きた小説となっている。日本で与謝野晶子、谷崎潤一郎に続く訳となった。その業績だけで、作家として文学史上に足跡をしっかりと残している。

 雑誌『日暦』(第82号、1987年11月)に、戦前から『日暦』同人として文学を共に歩んできた作家の渋川驍が追悼文「乱れ箱」を寄せているが興味深い、人となりがそこそこに表現されている。 

 「彼女が終戦の翌年子宮癌の手術を受けるため東大病院に入院したとき、彼女の夫君円地与四松さんから、その病院費を補うために創作集の刊行を考えてみてもらえないかと相談をうけたことがあった。自分の無力のためにそれを実現することができなかった。あの頃が彼女の一番苦しいときではなかったろうか。見舞に行っても、適当のことばが浮かばなかった。しかし、彼女はこの苦境からしだいに立ち上ってきた。
それを強く支えてくれたものは『小説新潮』に、短篇的な連作形式で発表した長篇小説『女坂』の成功であったにちがいない。それに注意することを勧めてくれたのは高見順君だった。それは約八年間にわたって発表された。その労は報いられて、彼女は先輩の宇野千代さんと揃って野間文芸賞を受けた」

 辛苦と逆境のなかから生み出された小説『女坂』(角川小説新書、1957年)で第10回野間文芸賞を受賞したが、彼女の代表作となっている。

 円地文子(えんちふみこ) は、1905(明治38)年10月2日に生まれる。東京都台東区浅草橋の出身。本名は圓地富美(えんちふみ)、1986年11月14日に死去、81歳だった。高等女学校を中退したが、父親は東京大学教授の上田萬年で国語学者として著名だった。

 幼き時より病弱でいろんな病気をして学校も欠席することが多かったので、父から個人教授を受けながら学んでいたが、戯曲、古典の日本文学に興味を抱く。

 戯曲家の小山内薫から教えを受け、初めは戯曲作家として作品を創作する。戯曲作家として活動するも、小説家としてはあまり評価されなかった。生活のため少女小説などで糊口を凌いでいた。世の中から小説家として認められだしたのは、1960年代に入ってからのことである。

 ある逸話が残っている。1965年に創設された谷崎潤一郎賞の選考委員となったが、自分の小説を受賞対象に主張したことで周りから反対にあい、選考委員の武田泰淳から選考委員の受賞はダメだと痛烈に批判をされたという。

 円地には激情ともいえる気性がある。

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