戦前から歩みを共にした大谷藤子のことを追悼した円地文子の一文が、雑誌『日暦』(昭和53年5月、第72号)に「大谷藤子さんのこと」と題して掲載されている。
「大谷さんとは、亡くなるまで親しくつきあったが、彼女と私とは実のところ異質なものを持った人間同志だったのであろう。彼女も私に惚れたことは一度もなし、私も彼女に惚れたことはなかった。
こういう女同志が四十年も附合っていたということに老年の私は、人生の不思議さを感じている」
円地文子には、どこか冷徹な気性があったように見受けられる。
古典文学に造詣が深く艶のある『源氏物語』の訳で魅了した小説といってもよい作品を残した円地は、時代を見つめる眼にも冷静さを宿していたようだ。
雑誌『人民文庫』(第2巻第1号、昭和12年1月号)に「新春一家言」のなかで、「擬古典主義について」の文を添えている。
「元禄以後の市井文学が次々に生彩を失って来て、果ては荒唐無稽の読本、草双紙の類が一般の読物となったことを考えると、これらの擬古典主義の文学も、政治的な強権圧迫が、そういう方向へ一部の文学者を逃避させたのだと云えないこともない。
こういう態度―現実を現実として書きぬくことを恐れさせ、何かの安全地帯へ避難することで自分を守ろうとする傾向は、時代の強圧がきびしくなる程われくの周囲にも多くなって来る現象だと思う」
と言下に断じ、きっぱりと切り捨てる。
「現代にあって文学が、現実を逃避しようとする態度は、もっと、複雑で、功利的である。それは凡らく、形式などには拠らないで、内容―殊に、人間の中にかくされている感情の『古さ』とか『低さ』とかを過剰に肯定する古い常識に立脚して行くであろう。読者はこういう作品に古い感情を甘やかされる。そうして知らぬ間に過古の安全地帯に身を降ろして現実をはるかに遠ざかるのである。文学がそういう慰安でだけあってよいなら別に問題はない。講談や大衆文芸はもって正直に読者を甘やかしてくれる」
この一文が掲載されたのは、1937年のこと、「人民戦線事件」で多くの労働者、農民、学者が検挙、弾圧されたときである。勇気のいる言葉だ。
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