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  4. 2018.04.16
作家 古澤 元 (上)
プロレタリア文学と時代

 杜父魚杜父魚とはカジカのことだ
 石の下や岩の合間にひとりじっと孤独そうにしていて
 けっして水面に浮いてこない
 そのくせ、非常に諦めのよい脆い魚で
 針一本のヤスで刺されても刺されれば
 それでもうおしまい私は子供時分、田舎にいた頃
 よくこの魚を獲りに、川へ出かけた


 古澤元、真喜文学碑に刻まれた言葉である。古澤元の人生を言い得て妙な意味合いをもっている。

 古澤元(ふるさわげん)は、1907(明治40)年12月11日に岩手県沢内村(現・西和賀町)に生まれる。岩手県立盛岡中学(岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業、旧制仙台第二高等学校を放校処分となる。本名は古澤玉次郎(たまじろう)、別筆名は秦巳三雄(はたみさお)を名のった。

 第二高等学校時代、非合法政治活動をして学校を辞めさせられた。上京し、プロレタリア文学運動に身を置いた。雑誌『戦旗』の編集部で、秦巳三雄のペンネームを使い評論や翻訳を手がける。

 その後、古澤元の名前で執筆活動をするが、『日暦』同人、武田麟太郎主宰の『人民文庫』の同人となり小説や評論を発表する。1940年に同人雑誌『麦』に発表した「紀文抄」が、第12回直木賞候補作品となり、世間から注目をあびる。

 また、『日暦』に「びしゃもんだて夜話」を3回連載して郷里を題材とした作品を発表する。

 日本青年文学者会常任委員となるが、第二次世界大戦の終年に召集されて1946年5月3日、抑留されたシベリアで病没、不運な最期を遂げる。享年38歳。

 文学作品への再評価が高まり、1998年に郷里の沢内村玉泉寺に古澤元・真喜夫妻の作家としての文学碑が建立される。2006年には、町村合併による沢内村の閉村事業として『古澤元作品集』が村の教育委員会から刊行された。

 碑文に刻まれた「杜父魚」(カジカ)は、子ども時代を過ごした沢内村の村人なら誰もが体験した漁であった。古里に思いを馳せる心が宿っている文学碑だといえる。 
 『人民文庫』の廃刊をめぐって内部の対立が生じる。古澤元は反対の立場であった。1938年1月に廃刊となったが、武田麟太郎の家に年賀の挨拶に来た賛成の立場だった田宮虎彦を「帰れ」と罵倒し、追い返したという。古澤からすれば、田宮は沈没する船からさっさと逃げ出す卑怯者と思い込んでいたにちがいない。

 古澤元の気性の激しさを現す事件だった。

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