第二次世界大戦中、終戦になっても日本の地を踏むことはなかった古澤元、38歳で召集されて満州に赴き、そのままシベリア抑留で命を落とした。
日本に残した妻と子を想い、どれだけ無念であったろうか。理想の社会、目指した社会主義の国、ソ連で無惨な死を迎えた。
妻の古澤真喜は、子どもの襄(のぼる)を育てながらいつか帰国する夫を待ちわびた。戦後、解放された風が日本の隅々まで吹き渡ったが、長野県上田市でもアメリカ進駐軍相手を中心としたダンスホールが開業、その店に友達と2人でダンサーの仕事をする。喰うために。
「お嬢様育ち」だった真喜のことを考えれば思い切った決断ともいえるが、喰うために仕事を選ぶ余地はなかったのだ。夫の帰国を待ち、一人の子を育てなければならない。
古澤真喜(ふるさわまき)は旧姓は木村真喜、1910(明治43)年1月9日に長野県上田市に生まれる。家は木村陶器店を営み、資産家の娘として育った。ただ家庭の複雑な事情で実母を「姉」と呼び、祖父母を両親として成長していく。上田高等女学校(現・染谷丘高校)を卒業後、28年、実践女学校専門学部英文科に入学。
家の犠牲となった母のようにはなりたくないという思いが強く、文学への憧れと反発心から社会科学研究会に顔を出し『共産党宣言』などマルクス主義の本を読みあさる。
1931年には、社会科学研究会の仲間を下宿にかくまったことを理由に渋谷署まで連行されて保護室で特高警察主任から尋問を受けた。学校側は卒業間近だったので不問にして卒業させた。就職のために遠縁を頼り、内外社という小さな出版社を紹介してもらった。この内外社は、左翼系の本ばかりを出版する会社で校正の仕事を経験する。
その頃、雑誌『戦旗』から人伝てに英文の翻訳依頼がきた。そこで初めて、先で夫となる古澤元と知り合う。プロレタリア文学への理解と興味も深まっていくことになる。
プロレタリア文学運動の隆盛と衰退を目の当たりにしながら、古澤夫婦の苦難の貧苦生活がどこまでも追いかけてくる。国家権力の弾圧は日増しに強くなるばかりだ。赤貧を洗うがごとくの生活で、真喜は実家との間で苦悩し、金を無心しながら夫と子どもとその日を生きていく。
その頃、『人民文庫』が作家の武田麟太郎の出資で発刊されることになる。プロレタリア文学運動の衰退と国家権力に屈して転向していく作家、詩人たちには暗雲がたれこめる時世で、一筋の希望の光でもあった。迫る戦争の足音とファシズムの嵐の予兆が身辺に近づいていた。
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