ファシズムと戦争の時代の気配に誰もが怯え、息をひそめて文学にしがみつこうとしてあせっていた。
武田麟太郎が主宰して刊行された『人民文庫』は、一つの闇夜を照らす光、羅針盤であった。そこにはまぎれもなく人民統一戦線の思想が柱となって、目的意識性をもった文学活動が展開されようとしていた。
真喜の日記に「武田さんが急死されて、夫人からの電報をみて、眼の前が真暗になった。文学の師を失ったという悲しみとこれからの人生の指針を失ったことで、私は全く打ちのめされてしまった。それから立ち上るまでは長い年月がかかった」(1976年7月3日)と書き記していることでも存在の大きさがよくわかる。人生の中で、大きな影響を及ぼす人と遭えたのは幸せなことだ。
一つの逸話がある。当時、文壇で活躍していた武田麟太郎のところに無名のカメラマンが訪れる。後に一時代を築いた土門拳である。執筆している武田の姿をカメラに収めた土門、その家で古澤元とも出会う。何かに興味を抱いた土門は、古澤夫妻の写真をカメラに収めた。
文学の道を志しながらも、家庭と戦後は子どもとの生活を守るためにダンサー、ホステスをしながら生き抜いた真喜。
周囲の勧めも強くあり、自分の人生をふり返り、自伝的な小説を書き始める。それが小説「碧き湖は彼方」である。1974年7月から同人誌『星霜』に6回の連載で発表されたが未完のまま終わった。力尽きて、1982年2月6日、亡くなる。享年72歳だった。
だがその志は、息子の襄の手によって発行された『遺稿集 古澤元 古澤真喜』(昭和57年3月26日発行、三信図書)でこの世に残されている。冒頭に真喜の詩が飾られている。文学を志した夫婦の想いがやさしく伝わってくる詩である。
碧き湖
幻の碧き湖を求めて
涯しない人の世の砂漠をさまよいし
わが旅路の漸く終りに近づきたるか
六十路の半ばもすぎたるに
われ湖にいまだ巡りあえず
されどいつの日か
そを見ることのあらんかと
されど、ああ
あくがれの碧き湖は彼方
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