プロレタリア文学運動には、公式主義的考え方があった。それは、プロレタリア文学とは労働者、農民の生産現場を知り、体験しなければ小説や詩を描けないという経験主義のものの考え方である。ある種の形式主義ともいえる。
これは間違いだ。当時、混乱を引き起こし、実績のあった作家までもが労働現場を体験する事態をまねいた。
『人民文庫』で生きた作家の細野孝二郎は、その問題点を的確に言っている。創刊号で、「無名・貧乏作家の弁」を書いている。
「実際この深刻な世相を生々とヂカに感ずる非お手当組の無名作家は、私ばかりでなく誰しもそうした気持を感じはしないであろうか?こう云うとお手当組の連中から、そんなに貧乏して卑屈な気持を抱いてまで文学にしがみついていなくてもよさそうだが、然し他の人はいざ知らず私はその点についてはこう答える。貧乏しながらも己れの力で女房子供を扶養している、と。そして若干誇りがましいものを感じるのである……」 だが現実の生活がある。売れない作家には貧乏神がまとわりつく。良い小説を書きたいという葛藤が続く。
「生活に追いこくられていると腰を据えて心魂をうちこんだものを書いている暇も落ちつきもなくなる。従ってわれながら不本意なものしか書けないことになってしまう。余程根性骨の太い人間でもない限り、その日の生活に汲々しながら腰を据えて小説を書いている落ちつきも失い、ただ闇雲な焦慮の中に陥ちこんでしまうからである……」
その葛藤の行きつく先が生活と、小説を書く材料を仕入れるために労働現場へと足を踏み出すことになる。
「勿論生活が保證された訳でもなかったが、私は四ヶ月ほどそこで働いた。そして私はなにをそこから掴んで来たであろうか?勿論最初から小説のネタ漁りだとか、港湾労働の体験とか、そうした下心からではなく生活に窮して働きに行ったのであったが、然しまるで慾望や野心がなかった訳ではない、なにか掴んで来るものはあるだろうとは考えていたのである……」
プロレタリア作家がそこには陥りやすい落とし穴があったのである。
「それだのに私はまもなくその労働市場の虜になってしまい、そして数人の文学志望の男がやはりそこの虜になってどうにも足が抜けなくなっている態を見たのである。それを実行する気力は全く擦り減らされてしまい、トドの詰りが生活の虜になってしまう」
細野の周囲の文学を志した人物は虜になりその道からはずれ、彼自身も危なかったと述懐している。
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