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  4. 2018.06.25
作家 平林 彪吾 (上)
プロレタリア文学と時代

 作家の平林彪吾という人がいた。小説『月のある庭』(昭和15年3月22日発行、改造社)を20年ほど前に読んだ時、言いしれぬ寂しさを感じ何となく気になっていた。 

 小説家で親友の落合茂は、『小説横町のひとびと』(1980年10月20日発行、栄光出版社)の中で「彪吾の死の前後」を書いている。手元に残っていた最後の葉書に、日付は昭和14年3月11日付、平林の死の1カ月半あまり前だという。

 「お葉書嬉しいでした。ぼくは今度すんでに死ぬところでした。いや、まだどうなるかわからないが…。中毒です。四十度の高熱と二日続け、七転八倒の苦しみ、腸を清掃してやっと熱は三十八度台に下がりました。最初風邪だとばかり思い込んで、風邪薬を無暗に飲んでゐたのが、事態を欺く悪化させた原因でせう。四十度の熱ですから、自分でも腸の痛みなぞに気付かずに呻ってゐた二日ばかりの間に、猛烈に毒は廻り、全身発疹、関節は腫れ上り、まだ足腰は自由に立てません。朔日からやっと牛乳を飲み初めました。そこへ貴兄からの葉書が来たので嬉しかったです。……」

 この葉書には、いきさつがある。落合茂が書きあげた短編を持参したところ、平林から骨身に沁みるほどの批評をあびてしまい、自信作ができるまで1カ月近く会わなかったところに来た平林からの返事だったわけだ。

 見舞いに訪れるとヒゲをのばした平林は、「ひどい目にあったよ」と言葉をかわすことができた。「人間、いつ病気になるかわからないのだから、仕事だけはつねにしておかねえ」と言葉を返した平林は、敗血症のため、1939年4月28日に息を引き取った。

 それはプロレタリア文学に生きた人間にふさわしいのか、施療病院で37歳であった。酸素吸入器をマイクと思い、息を引き取る直前まで文学のことを演説していたという。

 治療費が無料となるので、入院の条件として解剖承諾書を入れないと入院できない施療病院では、遺体の引取りが簡単ではなかったのである。死んでも貧困がつきまとう悲哀が横たわっている。

 平林彪吾(ひらばやしひょうご)は、1903(明治36)年9月9日、鹿児島県姶良郡西襲山村東郷百六十八番地に自作農の子として生まれた。本名は松元實。姶良郡加治木工業学校家具科卒業、上京後、日本大学高等工学校建築科卒業、関東大震災後に復興建築技手を拝命、銀座界隈の区画整理事業に。

 この頃、詩人の集まりにボヘミアンネクタイで現れるモダンボーイだった。同郷で知り合った三嶋信子と結婚する。ますます文学の道にのめりこんでいく。

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