「どうも君たちの書く小説は面白くないと或る商事会社に勤める友人がいうのである、なる程読めば穿った観察もあり、考え込ませる点もあるが、しかし、どうも読もうという強い衝動がおこってこない、これはどうしたというのだろうと」
『人民文庫』(第1巻第6号、昭和11年8月号)に、作家の井上友一郎が「小説・英雄・人民など」の題で書いた。サラリーマンのその言葉に、なぜかと考えて生活のことを問いかけてみる。
すると、「とにかく何かパッと荒唐無稽なことがやりたい、思いも寄らぬ出来事にぶつかりたい、いずれにしても、それが肉体的なものであれ精神的なものであれ、突飛な、平凡でない、思い切ったものに触れたい、君もそんな小説を書いたならどうだなどと力なく笑うのが関の山なのである」と言う。
このサラリーマンの言うことが、今を生きる人間の一部の特色を表していることに気づく。そこで自分の物書きとしての小説に振り返る。なぜ読まれないのか、と。
そこである意味、居直ったような言い方をする。
「近頃色々な立場から小説の面白さという事が問題になっているが、面白さとは果して彼等を喜ばせることに関っているのだろうか、考えざるを得ないのである。
小説をよまぬ責任は向うにないが、さればと云って我々自身の小説そのものにあるものとも考えられない。本当の面白さは小説に水を割ったり砂糖を加えたりすることでない」と問題を一歩掘り下げていく。それを実行してしまうとどうなるかと疑問を投げかける。
「彼等を小馬鹿にすると同時に我々自身を不当な卑屈に陥入れることを意味するのである」と本質に触れる。
「彼等が小説をよまないのは多分ほかに重大原因があると思う。多分小説をよませない色々な制約があると思う。私はむしろそのような点に色々と検討が払われていいのではないかと考えている」と問題意識を直接的にぶつけている。
どういう意味なのか。続けてその意味を探るために、「近頃英雄を描けとか英雄主義の文学を書けということが云われているのも、要するに現代をかくあらしめる歴史的条件にもっと目を注げということになりはしないか。今日の世相が暗いとか重苦しいとか云った代りに、今度はもう少し明るさを求めよう、などと云う許りでは大した意味があろうとも考えられない」と問題提起をする。
1936年の頃、世相は軍国主義へとまっしぐらに突き進んでいる。時代の風潮に対して、「英雄」は必要ないというアンチテーゼがそこにはある。
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