アナーキストのころの堀田昇一は、仲間が足尾銅山から盗んで来たダイナマイトの処置に困り、油紙に包んだままのダイナマイトを目黒川へ投げ捨てたという逸話を残している(松元眞著『父平林彪吾とその仲間』)。
『人民文庫』第1巻第2号(昭和11年4月)に、「作家の立ち遅れ」を発表している。これまでの社会主義運動だけでなく、プロレタリア文学運動の問題点を鋭く指摘している。
「それにしても、われわれが今日最も知りたいと思うものは、過去にそうした自分たちを守るいろんな組織をもち、いろんな経験を積んだ多くの勤労者大衆が今日どんなくらしをしているか、どんなことを考え、どんなふうに動こうとしているかということについてではあるまいか」と言っている。
現実の労働者のあるがままの実態と、何を望んでるかに目を向けろと注意を喚起する。
さらにその上で「現在、組織的にも生活面の上に於いても、生産点からすっかり浮き上っている多くの職業的作家たちがどうしても十分掘りかえすことの出来ぬこの現実――勤労する多数者の生活の反映をこそ、われわれは最も熱心に求めているのではあるまいか。既に最近の統一戦線や選挙闘争などにも観取されるようにそこには全く新しい動きが様々の形で起っているのである」
さらに続けて己の見解を展開していく。
「そういう意味で、私はかつてわれわれの陣営で口喧しく批判された『立ち遅れの克服』ということが、今日再び新たに問題にされなければならぬのではあるまいかと考えている」
「情勢に立ち遅れている」ということを数十年の運動のなかでいつも耳にすることがあった。なぜその言葉がいつの時代も告げられるのか。一言で表すならば、私たちがいつも労働者のなかに存在しているかどうかが問われているのだろう。
労働者の気分、意識から離れたところで、運動はこうあるべきだと論じているだけで自己満足していることが多々あるのではないか。被支配階級の生活と労働の真っただ中で。きちんと話し合いの場をつくりながら、要求を一緒に築いているだろうか。大衆とかけ離れたところで、「あるべき論」を提案していないかと自省してみる必要がある。 |