「僕には二人の伴侶がある。僕には二人のはなれ難い友情がある。一人は草野心平であり、一人は坂本遼である。
坂本と僕にとって西灘村ははなすことの出来ない存在である。そこで僕たち二人の友情はガッキリ組み合はされた。大阪の町で草臥れとほした靴の紐を、僕は幾度西灘村の彼の下宿で解いたことであらう。
摩耶山一体を薄いけむるやうな黄昏時の空の色がつづいてゐた。
『星明りなら横谷から見るとこの神戸の空は明るいんだ』
そんなことを言った坂本が非常になつかしく憶い出される。
その坂本は今その横谷で百姓してゐる。
そして
『大阪で別れてから夢のやうな転変の車輪にのり、家に帰ってからは沈黙のなかにちぢこまって、あるがままを実に悲しく甘受してゐた。
敬虔な生活であったとも思ってゐる』といってよこす。
僕は坂本遼の鋼鉄のやうな意志と。その強靱な意欲の健康を常に信じてゐる。
『僕はこの頃落ちぶれてゐることを痛切に感じる』と坂本は言ふ。しかしそのすぐ次へ彼を書くのだ。
『けれども鋲靴をはいたロシヤの人々は「タシュケントはパンの町だ」と云って更新している』と
すべてが再びこれからだ。真実これからが進むべきときだ。坂本よ 現在の忍従をしろ! その忍従は次への爆発を強めるだろう。
これは僕の日記の一部である。
そしてこれを僕の生涯にとってちぎってもちぎることの出来ない友坂本遼の詩集の序にかへる。
農民詩人といわれた坂本遼の第一詩集『たんぽぽ』 (昭和2年9月発行、銅鑼社)へ原理充雄が送った賛辞の序文である。
詩人、原理充雄(げんりみちお)の本名は岡田政治郎という。
1907 (明治40)年2月19日に大阪府大阪市西淀川区浦江四一五に生まれた。鷲洲尋常小学校を卒業後、高等小学校高等科を終了、大坂郵便局に勤める。
詩を作っていた原理は、その縁で詩人の草野心平と交流するようになる。草野がはじめ中国で発刊した同人誌『銅鑼』は、謄写版、つまりガリ版印刷の詩集だった。鉄筆で書き、何から何までを草野一人で作った。
同人に名を連ねたのは、原理充雄、黄瀛、草野心平、宮沢賢治、三好十郎、岡田刀水士、坂本遼、高畠貞夫、高橋新吉の9人だった。第1号の奥付には「編輯兼発行者 草野心平
中華民国広州嶺南大学銅鑼社内 一九二五年四月発行 非売」となっている。
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