1920年代、時代の流れに沿って若き人びとが何かを求めて動き出す。その一人が原理充雄であった。
3人の友情は生涯にわたり、死後もその作品で継承されていくことになる。
原理充雄の詩に「R・S・に贈る詩」がある。「小酒井雄」の名前で関西学院文学部木曜倶楽部の『木曜島』 (1928年7月、第8号)に掲載された詩がある。詩仲間の坂本遼を訪ねた折の作品である。兵営生活で、思想のことで監視される詩友への想いが伝わる。
・・・・・・
『銅鑼』創刊号、1925年4月発行の草野心平の手で
中国で発刊され、原理充雄も作品を発表した |
俺は歯ぎしりする
単に君一人のにがにがしい忍従に対してではなく
あの時雨の中を白い作業服で歩かせられて人たちや
そして馬にひきづられてゐる様なカクコウでゐた人たちや
帝国主義日本のため
に便ひ×しにされて
ゐる××全部の中に
君を含めて
今俺は君に忍従の一条の道を示し得るのみだ
全身の力をこめて辛棒しろと言ひ得るのみだ
労働者として直線的に国家に向かって行った詩人には、治安維持法の刃が向けられた。1年にあまる拘留、衰弱死を察知した警察は釈放する。その直後の死、1932年6月30日のこと。
詩人の友、草野心平は『文学通信』 (33年9月号)に「原理死す」の追悼詩を発表する。
昭和七年六月三十日の夜明け。
(岡田政二郎)獄死す。
二十五歳。
春のけぶつてる姫路城下や。西灘の下宿の二階や。淀川べりの散策や。
東京へ行きたい行きたかつた原理。
郵便局雇。
若き党員
八・二六。
帝国主義日本、治安維持法で若き生命をとられた詩人がいた。
|