社会主義のフェミニズム
山川菊栄(1890〜1980年)は近現代日本が生んだすぐれた社会主義者であり、社会主義フェミニズム思想を切り拓いた女性思想家であった。わたくしは大学で山川を卒論のテーマに選び、主に1920年代の山川の女性解放思想について執筆した。
通っていた大学は私立では、蔵書数が多く、とくに雑誌類は豊富であった。出身者にジャーナリストになった人びとが多かったのも一因かと思われる。卒論執筆当時、わたくしは早稲田の馬場下町に友人と間借りして、早朝から図書館にもぐり、山川の文章を見つけ、読んでいった。
山川菊栄の思想は、すべての人が差別から解放され、人間として平等に偶され、基本的人権、安全に平和に生きる権利が保障される社会を渇望し、若い時期から理論・評論活動を中心にその思想と理論を磨いていったことである。古今東西の書物から貪欲に学び、得意の語学力を駆使して外国の社会科学・社会主義文献についても知見を深め、訳出・紹介していく。
山川菊栄は、差別を重層的に把握し、構造的に抉っていった。とりわけ日本帝国主義の下にあった朝鮮や台湾の民衆に思いを馳せ、植民地主義・帝国主義に抗した。
第一次世界大戦直後、反戦・反帝国主義ゆえに凶弾に倒れたローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒト(1919年1月15日死去)をいち早く日本に紹介したのは、山川菊栄が彼女らの思想と行動に大きな関心と共感をもったからにほかならない。
堺利彦が旗揚げした『新社会』の1919年7月号および9月号に、彼女らの死について筆を執り、深くその死を悼み、小伝を著した。21年加筆して『水曜会パンフレット』第6輯として出版し、社会主義の後進に大きな影響を与えた。
人間の平等と差別からの解放
山川菊栄のフェミニズム思想は、人間平等、被差別者の差別からの解放をバックボーンにしているが、性差別の当事者である女性が自覚的にその主体をつくり、自らの力で解放を勝ち取ることにあった。
とくに貧困により教育機会に恵まれなかった女性労働者の劣悪な労働条件、低賃金長時間・深夜二交代制、寄舎制度による拘束、などによる酷使・搾取の実態を女子英学塾(現津田塾大学)予科に入学した1908年12月(18歳のとき)に体験した。
富士ガス紡績押上工場(現墨田区)に救世軍の人びととともに「社会見学」に行き、「女工」たちの姿を目の当たりにして強い「衝撃」を受けた。
若いのに深夜業で疲れた活気のない身体を粗末な衣服で繕い、ようやく座っている姿。空ろな暗い鈍いその表情に胸を衝かれた。
「働く女性よ団結せよ」
さらに菊栄を打ちのめしたのは、救世軍(「軍」という名があるものの、実際はキリスト教団体。廃娼運動や「社会的弱者」に対する慈恵的・恩恵的な社会運動を展開。歳末の「社会鍋」も有名)士官がする説教であった。
そのような憐れな状態に置かれている「女工」たちに対し、彼らは「労働は神聖なり」「働くものには神の恩寵がある」という。さらなる我慢を強いる言葉に、菊栄は衝撃を受けた。
このときのことを菊栄は「労働階級の姉妹会へ」(1919年)に「女工こそわが姉妹」と呼び、彼女たちに伴走し、労働者階級の女性たちの解放のための理論的研鑽にまず励む。
菊栄と同時代の女性解放家には、平塚らいてう(1886年生まれ)や、市川房枝(1893年生まれ)たちがいるが、彼女たちとの最大の違いは、菊栄が女性労働問題を女性問題の核心に位置づけ、女性労働者の解放を第一義的に考えたのである。「万国の労働者よ、団結せよ」、「この一語をおいて労働婦人の現場を救うものがあろうか」「私は労働階級の姉妹の間におけるこの一語の宣伝をもって終生の使命としたい」。
それ以後の菊栄の思想・理論・活動の軌跡は、若き日に刻まれた体験・痛覚と抜きがたく結ばれている。
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