統一自治体選挙 |
こう闘った 東京・豊島区議選 《6》 |
ゼロからのスタート 〜1年であと31票まで積上げ〜
選挙(東京・豊島区議選、定数36)が終わって2カ月。新社会党が推薦し、無所属で闘った赤坂たまよさんは31票差の次点に終わった。「区議になるのは政治を良くするための手段だし、赤坂珠良に戻ってこれからも同じことを続けるだけ」と今の気持ちを話す。
臆せず話せる活力
区議選に出ようと決意したのは昨年春の大型連休前、1505票はちょうど1年間の闘いの成果だ。世田谷区で生まれ育った赤坂さんは、豊島区で市民運動をしてきたとは言え、ゼロ・白紙からのスタートだった。知人・友人がいるわけでなし、まして名簿などがあるわけがなかった。
そうした条件で、「結果が全て。1票でも負けは負け」(赤坂)と潔いが、わずか1年で1505人の支持を得たことは驚異的と言っていい。駅頭やスーパーなど街頭でマイクを握り、知らない人に話を聞いてもらうためにひたすら区内を歩くことが日課という頑張りが、たたき出した票だ。
それも、「街頭→個々面接→街頭」という生活サイクルが確立するのは昨年10月。契約社員で働いていた会社を9月末で辞めてからだ。それまでは土日だけが勝負の日々、もどかしさもあった。
もどかしいと言えば、告示までは選挙を前面に出せなかったこともある。最初は、羽田空港2020年の五輪増便による豊島上空の低空飛行問題を訴えて地域に入っていったが、どう選挙と結びつけるか、難しかった。
そして、無所属で闘ったことも大きな壁だった。公選法上の縛りが、無所属には極めて不利だからだ。また、少しはみ出すとすぐに通報が行き、選管から注意がきた。「赤坂を絶対に当選させるなという有形無形の圧力を感じた」と言う。
しかし、そうしたあい路をかい潜って当選に肉薄した力は、9回延べ25万枚のチラシ配布や個々面接のサポートなど周囲の大きな支えはもちろん、知らない人とも臆せず話せ、街頭で理路整然と語り、話すことが全く苦にならないバイタリティによる所が大きい。
44歳で運動を知り
この国に市民運動があるのを知ったのは44歳の時。「どこかで行き会っていたはず。今なら当然気付くことに気付かなかったことが行動の原点」だ。
2015年の戦争法制反対の闘いで国会前に行き、澤地久枝さんが呼びかけた国会前行動で初めてマイクを握った。翌16年の参院選、都知事選、衆院東京10区(豊島区など)の補選、17年の総選挙で市民の立場から立憲野党の候補者をボランティアで応援した。
そうした体験が立候補につながるが、日大卒業後に、2つ目の中央大学で法律を学び、弁護士を志して伊藤真弁護士が主宰する司法試験予備校で学んだことも下地になっている。伊藤弁護士は、憲法9条はもちろん、13条(個人の尊厳)、25条(生存権)の重要性について熱く語った。
家族で政治の話を
そして、「普通にOLになることを拒否」してきた生き方を否定せず、自由にさせてくれた家庭環境がある。
83歳の父親は、子どもの頃に戦争で貧困を強いられ、誰もが体験したひもじい思いをしたことから、昭和天皇の戦争責任や、戦争は絶対にしてはならないことなど、何度も話してくれた。
一緒に運動している人は、家庭で政治の話をしてきた人が多いという。「家族で政治の話をする機会があれば、政治を身近に感じ、自然に考えることができるのでは」と環境の大切さを強調した。
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