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2011年4月26日
  東日本大震災 激励行動
    命とくらしを守る
 

 新社会党中央本部による「東日本大震災激励行動」が4月13日から15日まで2泊3日の日程で取り組まれた。余震が相次ぎ、原発危機が高まるなか、松枝佳宏書記長ら4名はワゴン車で福島県中通りから浜通りへ折り返し、原発30`圏内を走り南相馬へ、浜通りを一路宮城・仙台へと被災地を駆けた。

 被災地の惨状をその目に焼きつけ、被災者や支援に心を砕く人たちの思いを聞き、原発災害が進行中にもかかわらず政府が進める復興、企業利潤を第一に弱者の生活を切り捨てる復興、被災者抜きの復興を許さない長期のたたかいに備える意味を込めた激励行動。被災地の党員は献身的に世話役活動に従事していた。

 
新社会党 松枝書記長ら

 一行は東北自動車道を北上して福島県鏡石町議の円谷寛さん、郡山市議の駒崎ゆき子さんを訪ね災害対応に追われる日々の一端を聞いた。マスコミの被災報道は浜通りに集中しているが、中通りの被害も放射能汚染などいろいろと大きい。

 次の目的地いわき市へは常磐自動車道を南下、国労組合員の渡辺隆義さんを囲み意見交換した。翌朝は磐城街道を福島第一原発から20〜30`圏内にかかる川内村、田村市都路町、葛尾村を抜け、25〜40`離れていながら放射能汚染の深刻な飯舘村を訪ねた。

 川内村から葛尾村への道筋の家々はカーテンが降り、村の中心部にも人の気配は絶え、牛舎には牛の影もなく、飢えた犬が近寄ってきた。

 飯舘村内の土壌は、放射能性物質の作付け制限基準値の5000ベクレルを大きく超える最高2万8900ベクレルを計測し、今年度の米と野菜の作付けは見送られた。

 飯舘村の村歌は〈山美しく水清らかな〉〈土よ肥えて人情ある〉わがふるさとを、〈今こそ手と手固くつなぎて村を興さん〉〈村を富まさん〉とうたう。題して「夢大らかに」。

 夢を奪ったのは誰?
村役場職員が懸命の対応中だが、いずれ責任をあいまいにしない村民運動が問われるだろう。

 強い日差しの下、太平洋岸沿いの南相馬市に避難先の会津若松市からたまたま一時帰宅している木幡忠幸さんを見舞った。路地の道路が陥没し、向かいの家の塀が崩れ、地震の大きさを物語っている。

 津波によって総なめにされた海浜一帯に広がる廃墟の跡は、木幡家から車で10分とかからなかった。鉄塔が倒れ、2人抱えもある大木の根がそがれ、ただ呆然とするばかりだった。

 海辺を走る陸前浜街道は歯の抜けた櫛のような美しい入り江が入り組み、津波の爪あとが無残な光景を見せていた。夜、たどり着いた仙台の街は電化と文明の都。

 その駅裏の事務所で震災後初の党員会議が開かれた。一人ひとりから被災の状況と思いが話された。松枝書記長は、阪神・淡路大震災の経験を踏まえてどこでも「命と暮らしを守る姿勢を貫くこと。県や国から与えられるのを待っていてはだめ。被災者の要求をまとめ実現させること」と震災を生き抜く心構えを強調した。

原発から遠くへ  6度の避難
当分戻る気はない
  ─ 南相馬市の木幡さん一家

 木幡忠幸さん(65歳)さんは妻の枝代子さんと一緒に南相馬市原町の自宅へ、避難先から1カ月ぶりに一時帰宅した。避難するときたっぷり餌と水を与えて別れた飼い猫親子がやせ細っていた。

 南相馬市の震災前人口は約7万人。福島県内で最も被害が多く、4月17日現在、死者473人、行方不明約1000人、避難5710人。死者、行方不明の多くが津波被害者だ。津波は20bを超え、海岸から3`奥の街をも破壊した。ここに約2000世帯、6900人が住んでいた。

 避難には原発避難も加わる。相馬市は一部が東電福島第一原発から避難区域の20`圏内にかかり、8割近くが室内退避の20〜30`圏内にある。木幡さんの自宅は25`の位置にあった。

 福島第一原発1号機の水素爆発が3月12日、3号機の水素爆発が14日、2、4号機で爆発音がして4号機の火災発生が15日。その4号機で後に東電社員2人が死体となって発見された。

 1号機爆発の翌日と3号機爆発の当日。妻の実家の浪江町から5人、自身の兄弟2人、妻のいとこ7人が木幡さんの家に逃げてきた。そして4号機で火災が発生した15日、4号機で仕事をしていた妻の甥が人をかき分けて現場を離れ、木幡さんの家に駆け込んだ。

 「原発が危ない。逃げろ」。小幡さん一家はその日のうちに福島県庁わきの小学校に避難した。翌16日、伊達市に避難、17日に那須のペンションに難を逃れ、その夜、埼玉県の越谷市へ行き、19日から2週間を長女夫妻のいる流山市で過ごし、4月3日に今いる会津若松市のアパートに落ち着いた。次女夫妻と4歳と8カ月の孫も一緒だ。

 放射能汚染から逃れて着の身着のままの自主避難は、転々6度に及んだ。そして、やや落ち着きを取り戻した矢先の一時帰宅だった。「原発さえなければなあ。40年間、反原発の闘いが不十分だった」。木幡さんが淡々と話した。

 4月11日、原子力安全・保安院は原発事故の深刻度を「レベル7」に引き上げた。翌12日、政府は20`圏外を地区ごとに計画的避難区域と緊急時避難区域に指定すると発表した。17日、東電が事故収束の工程表を明らかにし、原子炉停止に6〜9カ月かかるとの見通しを示した。

 「東電の言う状況になるとは思えない。一時帰宅などという恐れがなくならないとだめ。事故から25年経ったチェルノブイリを見ろ。東電と経産省と御用学者と政治家が結託して安全神話を振りまいた。そんな奴らの言うことは信用できん。国鉄闘争と同じだ」

 木幡さんは元国鉄(JR)職員。幼い孫を南相馬市へ、おっかなびっくり帰す気はないと言う。
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