戦後75年目の節目となる「慰霊の日」。追悼式典は新型コロナ対策で規模を大幅に縮小する。戦争体験者が歴史の舞台から退出を余儀なくされる中で、「記憶の継承」と戦後世代の責任を考える。
今年の追悼式典に際し、県は当初コロナ対策のため参列者を16人とし、開催場所は国立戦没者墓苑に移す案を示した。
研究者や市民から「国が引き起こした戦争に巻き込まれ肉親を亡くした県民の感情とは相容れない」「住民被害の実相がフタをされ、国難に殉じた崇高な死として意味づけられる恐れがある」などの批判を受け、知事も「勉強不足だった」として、200名規模で従来通り平和祈念公園広場での開催となった。
国立戦没者墓苑周辺には、殉国兵士を称える各県の慰霊碑が林立する。問われているのは、本土側の「8・15」に象徴される追悼のありようなのだ。
長い「沈黙」を経て
沖縄戦体験者たちの聞き取りから思うのは、「沈黙の歳月」の重さだ。
ひめゆり学徒隊の上原当美子さんは、証言を始めるまでに30年の歳月が必要だった。南部への逃避行の中で何人もの学友を失う。自責と叱責される不安から、すぐには遺族を訪ねることもできなかったという。
チビチリガマでの「集団自決」が明らかになるのは、戦後38年を経てである。「被害者」「加害者」として生き延びた住民にとって、「沈黙」が戦後をスタートさせる術だった。
渡嘉敷島で「集団自決」を体験した小嶺正雄さんが証言を始めた契機は、2007年文科省が検定意見で「集団自決」での日本軍関与の記述削除を求めたことだ。自身の人生が否定されたと感じた。証言前後は、いつも不眠と疲労感に襲われると話していた。
座間味島の「集団自決」から生き延びた宮里洋子さんは、親しい友人とも泊まりがけの旅行には行ったことがないと話す。たびたび戦場の悪夢にうなされ、叫んでは飛び起きることがあるためだ。
住民視点の沖縄戦
戦争体験の語りは、それを聞き、受け止める側があって成り立つ。問われているのは、非体験世代の読み解き記憶する力ではないか。沖縄では戦後の地域史(字誌)編纂や「平和の礎(いしじ)」刻銘のための悉しっかい皆調査等を通じて、住民視点からの沖縄戦の実相解明がなされてきた。
沖縄戦の最大の教訓「軍隊は住民を守らない」は、こうした努力によって「獲得されたもの」だ。