登校時に泣き叫ぶ 暴言や乱暴をはたらく
暗中模索の旅
「広汎性発達障害」、その後「自閉症スペクトラム障害」の診断を受けるようになった孫娘との暗中模索の旅が始まったのは、彼女が保育園の年長児の頃からだった。
孫達の運動会では、以前住んでいた愛媛県と千葉県から応援に駆けつけたものだった。その時の小学校の運動会で、孫娘も母親に連れられて入場門に集合したが、泣き出したので保育士や園長がなだめ、母親が抱いていたがとうとう参加することはなかった。
次の日曜日は保育園最後の運動会。年長児のダンスの出番が近づくと泣き出し、参加を拒んだ。小学校に入学してからは登校をいやがり、1年生の運動会でも大泣きしていた。
福岡県の久留米市内で孫娘と暮らすようになったときは、小学2年生になっていた。暴言や癇癪も多くなり、近くにある精神科・神経科クリニックの診察を受け、小学2年生の時に「広汎性発達障害」の診断を受けた。 睡眠障害もあるということで、漢方薬を処方されたが、臭いがイヤだと受け付けないので様々な工夫を凝らしたり、薬の製造元にも相談したが、二度と漢方薬は飲まなかった。私が同居するようになった頃、遺糞症を発症し、それに気づかず下着に排便することが増えていた。
登校時は泣き叫び、抵抗する孫を力づくで連れて行くことが増え、そのうち車に押し込んで学校まで行き、先生に引き渡すことがほとんどだった。それも難しくなると男女2人の教員に来宅してもらい、連れて行ってもらうようになった。小学校のプールも拒否。体育館での行事も嫌がり、逃げていなくなったりしていた。校外宿泊の行事も無理矢理観光バスに押し込んだ。
小学3年生の頃、大学病院の小児消化器科と小児神経科に通院するようになった。この頃、通級指導教室にも通うようになった。一つ上の孫息子も通級指導教室の先輩である。
不登校になった
孫の気持ちも考えずに続けた無理矢理登校も、終わりを迎える日がきた。6年生の5月末に修学旅行に行きたくないという気持ちが嵩じて発熱、口の中が熱でただれる奇妙な病気にかかった。不参加となりそれ以降は不登校となった。
家族も強制登校はやめた。大学病院の主治医も、無理矢理登校はやめるように校長宛に手紙を書いてくれた。
この頃、小学校の管理職、担任、通級指導教室担任、スクールソーシャルワーカーなどと家族の話し合いが行われた。その席で服薬の話が出て、その後の通院時に主治医に処方してもらった「気持ちが落ち着き、前向きになる効能があるという「エビリファイ」を服薬するようになった。
たしかに、気持ちが以前より穏やかになっていった気がした。通級指導教室担任には心を許しており、不登校になった後も担任の空き時間に週に何回か勉強をみてもらっていたので、なんとか卒業式には出ることができた。
中学進学時には、気持ちが少し切りかわり特別支援学級に通学しはじめた。しかし、夏休み前から学校を時々休むようになり、夏休みに入ると「もう学校へは行かないと決めたから、勉強ももうしない」と宣言し、教科書、ノート類すべてをゴミに出したので、私が戻して隠した。薬も拒否しはじめ、テレビとゲームだけの日々になっていった。
急遽、大学病院の神経科の予約をとり受診した。その翌日から「エビリファイ」も便秘の薬も一切飲まなくなってしまった。その後、別の精神科、診療内科の病院に行ったが、先生の受診前に逃亡してしまった。
この頃から、好きな時間に好きなものを作って食べたり、入浴を拒否するようになった。二学期からはほとんど不登校になり、2週間以上も入浴しないのが当たり前となった。リビングのソファーに寝そべり、テレビのリモコンを独り占め、保育園児が登園する時にもまだ寝ている。注意すると、暴言や乱暴をはたらく。兄とはデスマッチ的なバトルをやらかす。妹や弟には陰湿ないじめをするようになる。
行き詰まった私は、母親の代わりに大学病院の主治医と友人に相談した。2人から同一人物の話を聞き、お世話になりはじめたのが、忘れもしない昨年の11月3日だった。(岩崎美枝子)
|