新社会党
  1. トップ
  2. 週刊新社会
  3. 教育
  4. 2017.03.21 
2017.03.21
食生活と育児
「好き」がいっぱいの人生を<上>

  

 ピアノを習い始めた娘


「私もやりたい」

 
8歳の長女が「また」ピアノを習い始めた。「また」というのは、娘にとってピアノを習い始めるのはこれで二度目だからだ。
 一度目は5歳の頃だった。
 仲の良いお友だちがピアノを習い始めたのを聞き、娘が「私もやりたい」と言い始めた。スイミング、新体操など、習わせては嫌になり止めて…を繰り返していたので、「どうせまたすぐ止めるんでしょ。入会金がもったいない…」としばらく取り合わなかった。「きっとそのうち熱も醒めて言わなくなるわ」と思っていた。ほんとひどい母親だった。
 半年経っても、娘はしつこく「習いたいの!」と言い続けた。そういえば娘は赤ちゃんの頃から音楽が大好きで、お歌絵本をボロボロになるまで聴いてリズムをとっていた。そんな姿を思い出し、「まぁ1回やってみてもいいな」という気持ちでお友だちの紹介のピアノ教室に通うことにした。私から離れて受けるレッスンの時間は息抜きにもなるようで、娘はウキウキとした楽しい様子で通っていた。何カ月か過ぎ、その教室のコンサートが開かれることになった。

 だんだん嫌気が 

 コンサートに出るとなると、家での練習も熱心にならざるを得ない。私に加え、夫も、母も、「もっと練習しなさい」と娘に迫るようになった。急に周りの大人たちが毎日、口をそろえて「練習! 練習!」と言うものだから、娘はだんだん嫌気がさし、「いやだ!」と言うようになった。
 だが「いやだ」と言われたところで刻一刻とコンサートの日は近づいており、娘の演奏はまだまだ完成度が低いため、本人のやる気とは反対に大人たちの追い込みは激しくなった。しぶしぶ練習するものだから上達もしない。だからこちらも褒めることもできず、ダメ出しばかりになった。練習すればするほど、なぜだか下手になっていくような気さえした(ほんとに!)。
 娘は全然演奏を楽しんでいなかった。グダグダな気持ちが演奏に現れている感じがした。怒ってダメならおだててみたり、ご褒美を用意してみたり、とにかく大人たちは必死だった。娘を皆して追い詰めていたと思う。コンサートの直前になると娘は「もうピアノ嫌い」と泣きわめき、暴れ、私も何のためにピアノを弾かせているのかよくわからなくなってきた。  そして、完成度の低いままコンサート当日を迎えた。当日まで大人たちは心配で仕方なかった。リハーサルはなんとグダグダで間違えまくりだったので、私は客席で青ざめた。それなのに、娘は平然と本番に出演し堂々と弾ききった。それはもう完璧な演奏だった。
 私は青ざめたり、心臓が飛び出しそうなほどドキドキしたり、ほっとして脱力したりとひとり大忙しだったのに。あんなリハーサルのできで堂々と本番に出た娘の度胸はあっぱれだった。私なら絶対に出たくないと、駄々をこねていたと思う。

 純粋な想い潰す

 その勇気と度胸には大変感動したが、この数カ月のバトルで非常に疲れた。娘はもう嫌だと言うし、こちらも嫌がる娘に無理に続けさせる意味がわからないくらいに疲れきっていたので、引っ越しを機に教室を止めた。もう練習をめぐって、あんなバトルをしなくてもいいと思うとほっとした。音楽が大好きだった娘を嫌いにさせるために、私は習わせたわけではない。なのに、「舞台で失敗するような恥ずかしい思いを娘にさせたくない。娘のためにも完璧に仕上げてあげなければ」という一心で、娘を追い詰めてしまった。
 本当に悪かったと思う。娘のため、と言いながら実は私自身が恥ずかしい思いをしたくなかったのもあると思う。
 止めてからも家でピアノを触っている娘に、「またピアノ習う?」と何度聞いても、娘は「もうピアノ習うのはイヤ!」と言って一度も首をたてには振らなかった。
 私たち大人のやり方がもっと違ったものであったら、娘はピアノを嫌いにならずにすんだのではないか。習いたいと熱望していた頃、習いはじめて楽しそうに通っていた頃、娘が持っていた、「やりたい。好き。楽しい」という純粋な想いを潰してしまったというやりきれない気持ちを私はずっと引きずっていた。(愛内マミ)