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2016.4.12
注目集める「チェルノブイリ法」
年1ミリシーベルトで移住権





 旧ソ連のチェルノブイリ原発で起きた事故(1986年4月26日)から間もなく30年になるが、事故から5年後に制定された被災者補償法「チェルノブイリ法」が今、福島原発事故から5年の日本で注目されている。
 チェルノブイリ法は、追加被ばく線量が年1ミリシーベルトを超える地域を被災地と定めて住民の移住権を認めているが、福島原発事故では年20ミリシーベルトを基準とした避難勧奨地点の解除が強行されているからだ。このため福島県相馬市の住民206世帯808人が国を相手取り、解除の取り消しを求める訴えを東京地裁に起こしている。
 「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」で原告住民は、@ICRP(国際放射線防護委員会)などの国際機関の勧告では、公衆の被爆限度は年1ミリシーベルトとされ、日本の法令もこれを取り入れてきたのであり、20ミリシーベルトは違法、A政府は一方的に解除を決定し、解除から3カ月後には賠償も打ち切られるため、経済的な理由から帰還に追い込まれる、と主張している。
 こうした情況の中、さようなら原発1000万人アクション実行委員会は3月27日、東京都内で「福島原発事故から5年 チェルノブイリ原発事故から30年 講演会 さようなら原発―世界から」を開き、ベラルーシのチェルノブイリ原発事故被災者ジャンナ・フィロメンコさんが自身の体験を語った。
 ジャンナさんはチェルノブイリ原発から北西40`のナローブリア地区の出身で、事故当時、夫と2人の息子(3歳、5歳)と暮らしていた。ナローブリア地区は高汚染地(セシウム137で55万5000ベクレル/u以上)だったが、事故直後のソ連政府は一般市民でも生涯350ミリシーベルトまで被ばくは許容される」とし、人々は住み続けた。
 ICRPの当時の一般公衆の被ばく限度は年5ミリシーベルトで、その70年分として「生涯350ミリシーベルト」が採用されていたが、この基準値と比較しても年20ミリシーベルトがとんでもない数値であり、日本政府の帰還政策がいかに住民無視か分かる。
 ソ連崩壊前、ベラルーシの汚染地では住民運動が起き、1991年に「チェルノブイリ法」ができた。ナローブリア地区は「移住対象区域」となり、ジャンナさんの家族はミンスク郊外の新興住宅地区マリノフカの高層アパートの部屋(3部屋とキッチン)の権利を与えられ、91年に移住した。引越しの車代、4カ月分の給与の前払いを受けたものの、移住先での仕事のあっ旋もなく、慣れない都会で「ゼロからのスタート」だった。
 マリノフカ地区では同じ境遇の住民が次第に連絡を取り合うようになり、「移住者の会」が結成され、ジャンナさんは会の代表を20年務めている。
 ジャンナさんは移住までの間、30キロ圏内で事故処理作業者の給食管理業務に従事していたことから自身も「事故処理作業者」に認定されている。夫は移住後2年後に心臓発作で急死。長男のパーベルさんは事故後早期に高熱を出した後遺症で知的障害があり、「チェルノブイリの障害者」に認定されている。
 ジャンナさんは東京での講演で、「原発が故郷の大地に黒い傷痕を残した。住んでいた家を捨てることがどんなにつらいことか。核はコントロールできず、使ってはならない。過ちを繰り返さないで」と訴えた。


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