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第U部 私たちはどんな時代に生きているか |
7) バブル経済と崩壊
プラザ合意は、国内でバブル経済を発生させる要因ともなりました。円高を容認した日本政府は、輸出後退への対策として、公定歩合を大幅に下げて民間の設備投資をあおり、大規模公共事業の拡大で産業を刺激するなどの不況対策をとりました。
過剰設備をかかえて新たな投資先の少ない日本に、円高を見込んだ海外の投機資金も流れ込みました。これらの過剰資金は土地、株式などに殺到し、資産価格が急騰しました。
このバブルの収束のために政府がとった資金の総量規制は、しかし熱した鉄塊を氷水に突っ込むに等しく、資産価格を急落させ、日本経済に不良債権という大きな傷跡を残し、その後の長期不況を増幅させました。
政府はあわてて、金融機関や大企業の救済に税金を大量投入し、不況対策としても国債を乱発し、発行残高は累増して、国債費は歳出の4分の1にも達しました。この財政危機のツケも、消費税の導入と引き上げ、福祉の切り捨て、医療費値上げなどによって庶民に押しつけられています。
長期に続く超低金利政策は、ささやかな金利をすら庶民から奪い、金融機関と大企業に巨額の利益をもたらし、他方では法人税の優遇など不公平税制は拡大して、貧富の格差は大きくなる一方です。
(8) 日本社会党の崩壊と憲法の危機
バブルで庶民を犠牲にし、消費税を導入し、農業を切り捨て、しかも利権と汚職にまみれた自民党政治への怒りは高まりました。
この結果、 89年参院選では消費税反対の日本社会党が、 70年代後半以降の後退から一転して躍進し、自民党内閣は次々に交替し、政局は不安定化しました。膨大な財政赤字と不良債権と過剰資本をかかえ、多国籍企業間の大競争の激化に対応するため、財界は「構造改革」を死活の課題としました。
そのための政治体制再編成の突破口としたのが小選挙区制導入です。旧中間層も対象とした利益誘導型の保守の集票構造を改編し、少数意見を排除して、「国家意思の敏速な決定と執行」をめざすとともに、労働者の政党を解体・吸収しようとするものでした。それは「55年体制」の解体を意味しました。
基本路線を棄てた日本社会党は、保守政党との間の垣根が低くなり、指導部は保守大連合に引き込まれていきました。
財界は自民党を分裂までさせ、 93年に非自民の細川連立政権を樹立させました。対抗すべき日本社会党は、財界と保守勢力、マスコミに大労組幹部まで加わった「政治改革」の大合唱に屈し、細川連立内閣への入閣と引き換えに小選挙区制を容認してしまいました。
94年に細川内閣が倒壊すると、日本社会党は村山自社さ連立内閣で自民党の政権復帰を許し、安保条約「堅持」、自衛隊合憲、消費税増税へと変節、財界と保守勢力を驚喜させました。村山内閣には、当初、よりましな政策の期待も寄せられましたが、保守政党の基盤に支えられた連立内閣では、失うもののあまりにも大きい結果となりました。
変節に強く反対した日本社会党の5人の国会議員と全国の仲間が 96年に新社会党を旗揚げしました。
しかし財界、保守勢力、大労組幹部は手をゆるめず、日本社会党が名を変えた社会民主党から多数の国会議員を引き剥がし、新保守の民主党に合流させました。残った社会民主党は、橋本・自社さ内閣でも、新ガイドラインや介護保険制度、公費での金融機関救済、独禁法改悪、労基法改悪などに賛成し、これを推進しました。
こうして財界と保守勢力は、日本の政治・経済・社会の大転換を進め、国会は翼賛国会と化し、憲法を公然と踏みにじる悪法が大量に成立する事態となりました。日本社会党の解体にむけ大労組が公然と圧力をかけたことは、諸国の労働者党にも例をみませんが、日本社会党の自滅は、党が主体性と民主主義的精神に欠けていたことや、労組依存体質が強く、市民運動との連携が弱かったことなどにもよっており、私たち自身の反省点でもあります。
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