|
第U部 私たちはどんな時代に生きているか |
(5) 70年代の低成長と労働運動・日本社会党の危機
高度成長は 71年のニクソン・ショック、 73年のオイル・ショックで一気に壁にぶつかりました。アメリカは、世界中に戦略核と軍事基地を配置し、泥沼のベトナム戦争を戦い、世界中にドルを垂れ流したあげく、ドルと金との兌換停止に追い込まれました。発展途上産油国の資源ナショナリズムに基づく原油値上げは、安価な原油を前提とする大量生産・大量消費の体制に急ブレーキをかけました。
これを受けて、産業別労組と労働者諸政党が強い独仏などでは、労働者の賃金は下げず、労働時間を年間 1500〜1600時間に短縮しました。しかし日本では、民間の企業別労組が「不況は企業の危機」という財界のキャンペーンに巻き込まれて賃上げ自粛路線を深め、 80年代に入ると、次には官公労働組合に「行政改革」攻勢が仕掛けられました。総評はこれに十分に対抗できず、国家ぐるみの総攻撃となった国鉄分割・民営化という国労つぶしに対するたたかいも支えきれず、民間大手組合主導の「連合」に呑み込まれて消滅していきます。
先進資本主義国では、日本だけが年間 2000時間を超える労働時間を保ち、職場では命令と服従、組合無視が常態化しました。また中小企業と未組織労働者には、特に大きな犠牲が強いられました。官民を問わず、労働者がゆとりをもって働ける権利は奪われ、過労死すら多発しました。労働組合は弱体化し、組織率を下げました。
労組に依存していた日本社会党も、労働組合の右傾化にひきずられ、後退しました。とくに 86年の『新宣言』によって平和革命と社会主義の目標を棄て去ったことは、党崩壊の遠因となりました。
(6) プラザ合意と日本資本の変化
80年代日本の大企業は、能力主義管理の徹底で企業に忠実な「安価で良質」となった労働力を利用して、新機能を付加した製品を怒濤のように海外へ輸出し、世界市場で一人勝ちの状態となりました。それは先進資本主義国間の貿易摩擦をもたらし、「構造調整」問題が浮上してきました。
日本製品の集中豪雨的輸出を止めるため、先進資本主義国間で合意されたのが 85年のプラザ合意です。これは円高を容認し、円は1年間に1ドル= 240円から1ドル= 120円へ2倍に急騰しました。円高では、日本製の輸出品の価格が海外市場で上昇することを意味します。このため日本の企業は、徹底的な賃金抑制と人減らし合理化、さらにME技術革新を推進して生産性向上をはかるとともに、海外への直接投資を急増させ、また海外での社債発行などで海外に生産拠点を築くという新たな行動を展開し、本格的な多国籍企業へと変質を遂げました。 |
|
|
< 前へ戻る |
先頭へ戻る |
次へ進む > |
|
|